~私たちは一体、何を測らされているのか~
大晦日の今日、私は仙台の古本市に行きました。ふと手に取ったのは1983年―今から40年以上も前に書かれた教育についての新書でした。
ページをめくって驚いたのは、そこに書かれているものは、今の私たちが抱えているものと驚くほど似ているものでした。
「いい学校に入れば安泰なのか」「個性をどう伸ばせばいいのか」……。
40年経っても同じ議論が繰り返されているのはなぜでしょうか。
実は、私たちが必死に追いかけている「学力」というもの自体に、実は確かな定義は存在しないのです。
今日は、この「定義の不在」から始まる日本の教育の構造的欠陥と、そこで起きている現代特有の現象について、歴史と事実を書いていきたいと思います。
そもそも「学力」とは何なのか?
私たちは「テストは学力を測るものだ」と信じて疑いません。しかし、驚くべきことに日本の法律(学校教育法など)のどこを探しても、「学力とはこれである」という厳密な定義は書かれていないのです。
1. 「学力」はファッションのように変わる
文部科学省はその時々で「学力の3要素」や「生きる力」といった指針を出しますが、これは科学的な定義(Definition)ではなく、その時代の社会要請に合わせた「スローガン」に近いものです。
つまり、テストが測っているのは普遍的な人間の能力ではなく、「その時代の大人が『今はこれが大事だということにしよう』と決めた主観的なルール」への適応度、言わば「流行への感度」に過ぎません。
• 明治時代: 「富国強兵」のため、命令書を読み、従順に動くことが「学力」とされました。
• 高度成長期: 「大量生産」のため、早く正確に計算し、マニュアル通りに正解を出すことが「学力」とされました。
• 現在: 「イノベーション」が必要とされ、答えのない問いに向かう「主体性」が急に「学力」に組み込まれました。
このように、測られる対象(ゴールポスト)自体がコロコロ動くため、評価システムが安定しないのはある意味で必然なのです。
2. 「操作的定義」の罠
心理学の世界には「操作的定義」という言葉があります。「知能とは、知能検査で測られたものである」という考え方です。
日本における「学力」もまさにこれで、「学力があるからテストで点が取れる」のではなく、「テストを作って点がついたものを、後付けで学力と呼んでいる」のが実態です。
定義がないからテストが作れないのではなく、「テストを作ることでしか学力を定義できない」という逆説の中に、私たちは生きています。
歴史に見る「主観的なものさし」の変遷
「学力」という中身があやふやだからこそ、その時々の国や経済界の都合に合わせて、テストという「ものさし」だけが肥大化していきました。
1. 統計によるランク付け(ゴルトンの発明と誤用)
19世紀、イギリスのフランシス・ゴルトンは「人間の能力も身長のように正規分布する」という仮説を立て、統計を使って人間を分類する手法を発明しました。
ゴルトン自身は、「この数値だけで人間の価値を測ることには慎重であるべきだ」と警告を発していました。しかし、近代化を急ぐ日本はこの「便利な道具」に飛びつきました。
肝心の「何を測るか(学力の中身)」の議論よりも、「いかに効率よく順位をつけるか(測定技術)」だけが、日本で異常な発達を遂げたのです。
2. 「偏差値」というガラパゴスな大発明
戦後の高度経済成長期に求められたのは、工場のラインや事務作業でミスなく動く「高度な処理能力」でした。
そこで、ペーパーテストの素点(Raw Score)を統計処理してランク付けする「偏差値」が、この時代の「学力(=事務処理能力)」を測るのに最適化されました。
定義なき学力に、「集団内での相対的な位置」という仮の定義を与えたのが偏差値です。これは「中身」を問わず「順位」だけを教えるという意味で、実に日本的な発明でした。
【証言】企業が選別していた能力の正体
ここで、私が読んだ本の中にあった、ある興味深いエピソードを紹介します。
【学力とは何か】中内敏夫著 岩波新書 1983年 より
長年、ある企業の人事を務めた人物が、学歴社会の裏側について語った言葉です。
彼によると、企業は単に「学歴」そのものを買っているわけではないそうです。
企業が見ているのは、教師が示す学力モデルに自分を合わせ、入学試験という激烈な競争に耐え抜いた能力。つまり、「他人に自己を合わせ、それに耐え抜く能力」を、学歴という事実の奥に読み取っているのだといいます。
これをもう少し綺麗な言葉にするなら、企業は学歴を買うという形で、来るべき社内での「学習(適応)」に耐えられる能力を買っている、ということです。この言葉は、日本の教育システムの本質を鋭く突いています。
「学力の中身」なんて定義されていなくても良かったのです。なぜなら、社会(企業)が求めていたのは、「何を学んだか」ではなく、「理不尽なルールや競争に耐えて、組織に自分を最適化できるか」という『忍耐と順応の証明書』だったからです。
定義なきテストが、なぜこれほど長く機能し続けたのか。それは、この「従順な労働力を選別する」という目的においてのみ、完璧に機能していたからに他なりません。
現代公教育の迷走「主観×主観」の評価、現代公教育の迷走「科学の敗北と、怪物の誕生」
しかし現在、社会が「処理能力」や「従順さ」以外のものを求め始めたことで、システムが機能不全に陥っています。特に深刻なのが、「科学的な測定の挫折」と、その反動で生まれた「巨大なテスト構造」です。
1. IRT(科学)の挫折
本来、テストの近代化とは「項目反応理論(IRT)」のような科学的な測定手法を導入し、「何ができるか」を正確に測ることでした。日本でも大学入試改革で導入が検討されましたが、技術的な壁に阻まれ、完全な挫折に終わりました。
2. 生まれたのは「継ぎ接ぎの巨大建築」
科学的な物差し(IRT)を持てなかった日本は、どうやって「選抜(差をつけること)」を維持したのでしょうか?
答えは単純かつ最悪なものでした。「テストの量と複雑さを、ひたすら増やす」という力技に出たのです。
• 共通テストの肥大化:
近年の大学入学共通テストを見てください。ページ数は激増し、設定は複雑怪奇になり、架空の会話文や図表が大量に盛り込まれています。
• 見せかけの「思考力」:
これらは一見、「新しい思考力」を問うているように見えます。しかし実態は、昔ながらの処理能力テストの上に、「読み解くのに時間がかかる面倒な装飾」を何層にも重ねただけです。
学力の定義(中身)は変わっていないのに、外側の殻だけがバロック建築のように肥大化し、大半の人間には「何が何だかわからない怪物(パターンが見えない)」に見えるようになっているのです。
3. 「絶対評価」の運用実態とAAAの壁
入試が巨大化する一方で、中学校などの現場評価(内申点)は、別の方向で迷走しています。
• 「AAA」のハードル:
現在の通知表は「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」の3観点で決まります。多くの現場では、この3つ全てで高評価(A)を得なければ、最高評価の「5」がつかない「AAA以外は4以下」という運用がなされています。テストが満点でも、授業で挙手しなければ「4」になる構造です。
• 「主体性」というブラックボックス:
特に問題なのが「主体的に学習に取り組む態度」です。これは本来、数値化できない内面のはずですが、現場では「挙手の回数」「ノートの丁寧さ」「提出期限」などで点数化されがちです。
これは学力というより「従順さ」の測定であり、結果として生徒は「先生への忖度」にエネルギーを費やすことになります。
日本の分断地図「都市の課金」と「地方の政治」
「学力の定義」が壊れた結果、人々はどう動いたか。
都市部と地方で全く異なる、しかしどちらも「学問の本質」とはかけ離れた生存戦略が生まれています。
都市部で完成した「階級の再生産システム」
こうした公教育の混乱とテストの巨大化を、冷徹に見つめている人たちがいます。それは、このシステムを勝ち抜いてきた都市部のエリート層です。彼らにとって、この状況は「危機」ではなく、「自分たちの地位を盤石にする好機」なのです。
1. 「複雑さ」という名の参入障壁
肥大化した現代のテストは、公教育だけで育った子供には「常に新しい、未知の難問」に見えます。しかし、早期から塾で訓練を受けた子供たちには、それが「既視感のあるパターンの組み合わせ」に見えています。
• パターンの高速処理:
難関中学受験塾や鉄緑会などのエリート塾では、この「複雑に見えるテスト」を分解し、パターン化して処理する訓練を徹底的に行います。
• 勝ち組の論理:
テストが複雑になればなるほど、「訓練量」と「早期着手」の差が直結します。つまり、勝ち組(親)は、テストを難解にすることで、「課金できない層・情報の遅い層」が絶対に入ってこられない「壁」を高く築き上げているのです。
2. 勝ち組による「勝ち組の再生産」
都市部の中学受験熱の正体は、単なる教育熱心ではありません。それは「自分たちが勝ち抜いた構造を、より強化して再利用する」という、極めて保守的な生存戦略です。
彼らは知っています。学力に定義がないことも、テストが本質的でないことも。
知っているからこそ、その「空虚だが複雑なゲーム」の攻略法を子供に叩き込み、東大などの学歴ポジションを世襲させる。
一見、改革が進んでいるように見える日本の教育ですが、その裏では「持てる者が、そのルール自体を有利に作り変えながら、階級を固定化(再生産)している」という、冷徹なサイクルが回っているのです。
公教育の曖昧さを嫌い、カネの力で「ペーパーテスト一発勝負」の世界へ脱出するルートです。ここでは「主体性」など無視して、圧倒的な処理能力と先取り学習で東大などのポストを確保します。
地方の戦略:忖度による「推薦枠の確保」
一方で、地方には別の「勝ちパターン」が存在します。それが、地方国公立大学への「推薦入試(学校推薦型選抜)」への最適化です。
• 「学力」より「適合力」:
推薦入試で重要になるのは、当日のテストの点数よりも、高校3年間の「評定平均(内申点)」と「先生からの推薦状」です。
ここでモノを言うのは、純粋な知性ではありません。教師の意図を読み取り、気に入られ、生徒会活動などで点数を稼ぐ……いわば「学校内政治」への適合能力です。
• 「勉強以外の才能」が勝つ構造:
皮肉なことに、ここでは「黙々と教科書を読み込み、深い教養を身につけた生徒」よりも、「愛想が良く、先生の雑談に大きく頷き、要領よく振る舞える生徒」の方が、「主体性がある」として高く評価されます。
ある種、「勉強という努力」よりも、「対人スキルという才能」を持つ者が、無試験に近い形で国公立大学の合格枠をさらっていくのです。
最大の被害者は「まともに勉強する多数派」
この「都市の課金ゲー」と「地方の政治ゲー」。この二極化の狭間で、最も損をしているのは誰でしょうか。
それは、「カネもコネもなく、政治力もないが、ただ真面目に勉強している大半の子供たち」です。
彼らは、都市部のエリートのような「超・先取り学習」をする資金も環境もありません。
かといって、地方の推薦組のように「先生に媚びて内申点を稼ぐ」ような器用な立ち回りもできません。
「テストで良い点を取れば報われるはずだ」
そう信じて、教科書に向き合っているだけの誠実な層が、
上からは「処理能力お化け」に踏み潰され、
横からは「内申点マスター」に出し抜かれる。
定義なき学力の世界で、最も割を食っているのは、実はこの「普通の努力」を「普通に積み重ねている」サイレント・マジョリティ(大多数)なのです。
ドイツとの比較で見える「日本の特殊性」
では、世界はどうなのか。ここで教育先進国と言われるドイツと比較してみましょう。日本の「学力の定義のなさ」が浮き彫りになります。
1. 「職業」か「学問」か(早期の分岐)
ドイツでは、10歳前後(基礎学校卒業時)で進路が大きく分岐します。
• ギムナジウム: 大学へ進み、研究者や高度専門職を目指すコース。
• 実科学校・基幹学校: 職人や実務家を目指すコース(マイスター制度へ接続)。
ここでは「勉強ができる=偉い」ではなく、「アカデミックな適性があるか、実務的な適性があるか」という「種類の違い」として扱われます。
一方、日本は全ての子供を「単一の偏差値」という一本の物差しで測り続け、「勉強ができない=人間的価値が低い」かのような錯覚を与え続けています。
2. 学力(Gakuryoku)と教養(Bildung)
ドイツには「Bildung(ビルドゥング)」という概念があります。これは単なる知識の量ではなく、「自分自身を形成し、社会とどう関わるか」という人格的な成熟を含んだ言葉です。
ドイツの評価は、テストの点数だけでなく、口頭試問や授業での議論への貢献度(質の高い発言か?)が厳しく問われます。
日本でも「主体性」が導入されましたが、ドイツのように「議論の中身」を評価する文化や訓練がないまま、形だけ導入したため、「挙手の回数」を数えるような形式主義に陥ってしまったのです。
3. 日本は「平等な競争」という名の「定義なき消耗戦」
ドイツが良いことばかりではありません(早期選抜への批判もあります)。しかし、少なくとも彼らは「学問」と「職業」を別の価値観として定義しています。
対して日本は、学力の定義を放棄したまま、全員を同じリングに上げ、曖昧なルールの下で戦わせ続けています。 だからこそ、ルールが明確な(点数で決まる)都市部の受験戦争が、皮肉にも「癒やし(救い)」に見えてしまうのです。
私たちはどう選択するか
「学力」に絶対的な定義がない以上、誰かが決めた評価に一喜一憂することには限界があります。
この構造を知った上で、私たちが選べる道は大きく分けて2つあります。
新しい時代の「二つの生存戦略」
A. テクノロジーで「証明」する(Tech)
プログラミングや制作物など、「目に見える成果」で自分の力を示す道です。
「学力」の定義がどうあれ、動くコードや作品は嘘をつきません。GitHubやポートフォリオは、学校の通知表よりもはるかに雄弁に、世界共通の言語としてあなたの能力を証明してくれます。これは日本の曖昧な評価軸を無効化する強力な武器です。
B. 人間的な「納得解」を作る(Touch)
数値化できない対話、ケア、芸術、交渉などの領域を深める道です。
ドイツのマイスターのように、特定の領域での「熟達」を目指すこと。正解のない問いに対して、自分なりの答えを出し、他者と協調する力。AIが台頭するこれからの時代において、この「人間らしさ」こそが、最も価値ある「学力」の定義になるかもしれません。
むすびに
40年前の本が教えてくれたのは、「学力というものさし自体が、時代によって作られた幻影である」という事実でした。
テストの点数や通知表の評価は、あくまで「その時点での日本のローカルルールへの適応度」を示しているに過ぎません。
そのルールが自分に合わないと感じるなら、都市部の受験競争に参加して「処理能力」を極めるもよし、テクノロジーや個人の感性で独自の道を行くもよし。
大切なのは、「学力」という言葉の魔法にかからず、「自分は何ができる人間になりたいのか」という、自分自身の定義を持つことなのだと思います。